吉島小学校の紹介


私たちの吉島地区

 

◯ 吉島学の背景  ~ 『吉島誌』より ~    ※ 令和4年度の職員会議資料として職員に配付した文書を中心に修正した内容です。

 

・ 川西町小松は海抜220m、米沢245m、吉島210mと、吉島地区は米沢盆地の中心部に位置しています。

・ 吉島地区の地形の主な構成要素は松川左岸の氾濫原低地と鬼面川扇状地の扇端部の両者です。この二つは一覧の低地を形成しているため、

 両者の間には明瞭な境界を引きにくいものとなっています。(中略)低湿な地帯は、排水が悪いことのほか、水利も悪いのでした。(中略)鬼面川扇状地

 では湧水や引水により用水を確保し、美田地域としたのは先人の努力と自然条件も大でした。また、氾濫によって形成されている土地であることから、水害に見舞れることも多く、 砂礫よりなるために水持ちが悪く、干害にも悩まされてきたそうです。現在の美しい水田風景とは違う様子が思い浮かんできます。

 ※ 3階の資料室に養蚕に関する道具をまだ残しています。これは、水稲だけでなく、畑作等に取り組んできた人々の暮らしがあったからです。

・ 黒井半四郎忠寄翁の酬恩碑

  土祖神地区は尾長島・吉田を境にして、道路は発砲に拡がる地点で人家も集まり商店あり、職人や医者まで住した地で、堰がとおり、神域として最適の地であったが、(中略)酬恩碑移転の話になり、(中略)教育の場である吉島小学校校庭に昭和十一年十一月十八日に移転されました。

  ※ 置賜農業高校の分校跡の碑、実習田跡の碑は今もあります

・ 吉島の農協倉庫の脇に「圃場整備竣工記念碑」があり、町の農業振興・発展が刻まれている地です。

・ 吉島地区は、松川(河川法が改正されてからは「最上川」)、万福寺川が流れている。吉島地区中町付近の松川に川港があったとのこと。この地は、舟運の最上流だったという。武士団の形成のと人々の暮らしについて思いを馳せ、栖島城(洲島城)跡や川港について訪ねることのできる地です。

・ 吉島地区には洲島八幡神社という県指定の文化財があります。また、古い時代に開かれたお寺も多数あるところです。

・ 吉島地区にも、地域独自のカブトエビがいました。動植物の分布についても興味のある地でもあります

 

 

 

吉島を愛し、次代を担う「明るく・賢く・逞しい」人間の育成

 本校は、米どころ置賜平野の中心に位置し、豊かな水田地帯に囲まれた学校です。子どもたちが日々展開する「学び」の様子を発信し、地域の宝である子どもたちを、地域とともに磨き上げていくという学校づくりをすすめて参ります。 

 令和元年。本校も子どもたち一人一人がそれぞれの花を咲かせることを目指し、子どもたちが持つ可能性の芽を膨らませたいと考えています。子どもたちの生き生きと輝く姿、成長する姿を見届けていただければ幸いです。

吉島小学校は地球の中心に位す。

 川西町は井上ひさしさんの故郷ということで、井上さんの蔵書を生前、川西町に寄贈なされました。それを「遅筆堂文庫」といいます。その堂則を井上さんが書いています。冒頭「遅筆堂文庫は置賜盆地の中心にあり、置賜盆地はまた地球の中心に位す。」から始まります。もちろん、書物というものが先人が残した知恵であり、結晶であることを意味したものであることはわかりますが、ここで生きる川西町の子どもたちに、地球の中心として生きる人間としての自覚、気位を持ってほしいと考えています。そしてそのような教育を行いたいと強く思うのです。